歴史

日本の葬儀をめぐる戦い!

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 地球上に人類が誕生したのは、約6500万年前といわれています。
それだけ長い歴史のなかで、葬儀(葬送儀礼)は古来より行われてきました。世界には4万年以上前の遺跡からも墓地が発見され、その場所からは人骨だけでなくお供え物の花の跡なども発見されています。
 日本でも紀元前の古墳や遺跡から、土葬・火葬、伸展葬・屈葬など形は様々ではありますが、埋葬の文化があったことがわかっています。
 我が国において葬儀の内容が大きく変化するのは、538年の仏教伝来以降ではないでしょうか。同時にその歴史は日本における宗教史と重なっており、さらに言えば国全体の政権をめぐる戦いでもありました。
 今回はまるで大河ドラマのような、日本の葬儀をめぐる戦いの歴史を紹介しましょう。

神道から仏教へ――聖徳太子の政治

 古代のお墓として有名なのは「古墳」ですね。
 3世紀ごろから「大王(おおきみ)」や豪族のための巨大な墳墓、古墳が作られています。最も有名なのは大阪府堺市にある前方後円墳「仁徳天皇陵」でしょうか。
 この仁徳天皇陵は日本最大の古墳であり、またエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝墓陵と並ぶ「世界三大墳墓」と言われています。
 もともと日本には「神道」という固有の宗教があり、神道の祭祀を行う場所が神社であるとされています。まだ研究途中ではあるものの、古墳の近くに神社が建てられていることが多く、有力者を埋葬している古墳と神道には何かしらの関係があったのではないか、とも言われています。
 その日本に、朝鮮半島を通じて中国から仏教が伝わったのは538年のこと(仏教公伝)。当時の日本は欽明天皇のもと、物部氏と蘇我氏という豪族が覇権を争っていました。なんとこの政治争いに、神道vs仏教という宗教問題も加わります。
 物部氏は日本固有の神道派、蘇我氏は仏教受け入れ推進派となり論争(祟仏・廃仏論争)を繰り広げますが、585年に用明天皇が即位すると、祟仏派・蘇我馬子と廃仏派・物部守屋の対立が激化しました。その2年後、用明天皇が崩御し、後継問題で蘇我氏と物部氏の戦争が起こり、蘇我氏が勝利します。
 592年に推古天皇が即位すると、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に就きます。厩戸皇子は蘇我氏と同じく祟仏派。594年には「仏教興隆の詔」を発し、全国に寺院を建立し、仏教の道徳観にもとづいた政治を行っていくのです。

 聖徳太子と仏教にもとづく政治によって、日本の葬儀も変化しました。
かつての古墳のような大々的な埋葬は「厚葬」と呼ばれていましたが、仏教が重んじられるようになると有力者を巨大な古墳で葬ることも少なくなっていきます。
 そうした流れを象徴するのが、大化の改新の一環として発布された「薄葬令」でしょう。
古代の古墳は有力者の墳墓を生前に、民衆を集めて作らせていました。そのため古墳を作るごとに民衆に大きな負担がかかっていたのです。
 その厚葬が廃され、薄葬政策が取られた末、703年12月に持統天皇が崩御した時は、遺言によって火葬・仏教葬が行われています。
火葬は仏教の葬法と言われていますが、火葬自体は仏教伝来以前からも日本に存在していたようです。しかし持統天皇、さらに880年12月の清和天皇の葬儀が火葬と仏教葬にて行われたことをきっかけに、日本でも火葬と仏教葬が結びついていくこととなりました。
 さらに9世紀から国内では多くの宗派が生まれ、仏教葬も各々の宗派の形式で有力者だけでなく民衆にも普及していきます。

キリスト教の伝来と寺請制度の誕生

 10世紀ごろから民衆に仏教が普及するとともに、鎌倉幕府、室町幕府の時代には「村」が形成されていきました。
 農民による自治組織の誕生、農業の発展により庶民も経済的に豊かになると、有力者だけでなく民衆の間で葬儀が行われるようになったため、必然的に民衆と寺院の結び付きも強まります。
 そこで生まれたのが「寺檀関係」です。
 経済的に豊かになった農民が寺院の維持費を負担し、寺院は農民の葬祭・仏事を行うという関係が成立しました。この関係における寺院を「檀那寺」、寺院を支えた人たちを「檀家」と呼び、寺院と檀家の関係を「寺檀関係」と言います。
 この頃に葬祭は仏教の形式で行うのが一般的になったのでした。
一方、時は戦国時代。日本の宗教史において、6世紀の仏教伝来に次ぐ、大きな出来事がありました。
1549年8月、カトリック教会の司祭であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来着し、キリスト教の布教を開始したのです。
 時の室町幕府将軍・足利義輝に全国布教の許可はもらえなかったものの、日本でその人生を終えたザビエルは、確かに日本の地にキリスト教布教のきっかけを作ったのでした。
 そのキリスト教に興味を示したのが、室町幕府を滅ぼしたあの織田信長。仏教徒と対立していた信長はキリスト教を庇護します。
 その後、全国統一を成し遂げ、戦国の世に幕を引いた豊臣秀吉も当初は布教を認めていました。ところがキリシタン大名と仏教の対立をはじめとした事件が発生したため、1587年7月に「バテレン追放令」を発布し、宣教師の国外追放を命じ、国内の布教活動に制限を設けました。
 さらに1596年、「サン=フェリペ号」事件をきっかけに、秀吉は国内のキリスト教徒を弾圧。続いて天下を握った徳川家康は一時的にキリスト教の布教を認めていましたが、江戸幕府は1613年にいわゆる「キリスト教禁止令」を出し、1637年に起こったキリスト教徒たちの反乱「島原の乱」後に鎖国政策を打ち出したため、ここから明治維新後まで日本でキリスト教は禁教とされてしまいました。

 この時代にはキリスト教(カトリック)式の葬儀が、日本に伝わっています。キリシタンが亡くなると、神父が「終油の秘跡」のあと祈りを捧げるという、カトリックの葬儀が行われ始めたのです。
 対して仏教では、島原の乱以降に江戸幕府によって「寺檀関係」が制度化されます。これを「寺請制度」と言います。
 1661年から1673年の寛文年間に、幕府は宗旨人別帳(宗門改帳/現在の戸籍のようなもの)作成を開始し、それを寺院が管理することと定めます。
 結果、民衆は必ずどこかの寺院に所属する=檀家になることが義務付けられました。
 この寺請制度は日本において戸籍に基づいた人口調査を可能にし、さらに各書類――特に死亡届も寺院が管理するようになっています。

 さて、一方で日本古来の宗教である神道はどうなったかといえば、仏教の普及でその地位は低下していたものの、新たに「神仏習合」(神道と仏教の融合)によって存続します。
 それに対して神道という宗教の体系化も進み、1700年代に確立されたと言われていますが、寺檀関係と寺請制度によって神道の信者であっても、仏式の葬儀を行うことを強いられていました。
 ところが19世紀末、そんな寺院と神社の関係が一変します。寺請制度を作り上げた江戸幕府の崩壊と、天皇中心の明治新政府の誕生によって……。

明治維新と神仏分離令――そして戦争へ

 1853年、ペリー提督率いるアメリカの艦隊が浦賀に来航。この時にアメリカと結んだ条約によって江戸幕府の「鎖国体制」は崩壊し、さらに幕府は約260年の歴史に幕を閉じることになります。
 15年後の1868年、時の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、明治天皇による「王政復古の大号令」が発せられました。ここから日本は朝廷でもなく、幕府でもなく、天皇を中心とした政治を行っていくことに。
 その翌年、新政府は「神仏分離令」を発布し、それまで事実上の国教となっていた仏教に代わり、神道を国教化します。1871年には戸籍法が改正され、江戸幕府の時代には戸籍の役割も果たしていた寺請制度も崩壊。宗教的にも「神仏習合」は無くなり、神社から仏教的な要素も排除されるのでした。
 さらに1872年、明治政府は「葬祭略式」を制定し、これによって神道の葬儀「神葬祭」の形式が確立されます。翌年には江戸幕府より続いていた「キリシタン禁制の高札」も撤去され、1875年には制限はあるものの「信教の自由」を布告しました。国としてキリスト教も公認になったのです。
 一方で仏教葬も江戸時代までに広く普及しており、明治になっても民衆の間では仏教葬のほうが支持も高く、結果的に神式、仏式、キリスト教式の葬儀が行われました。

 ちょうどこの時期、日本に新たな職業が誕生したといわれています。それが葬儀社です。
 葬儀を請け負う人は江戸時代からいましたが、「業者」として葬儀社が確立したのは明治時代です。 葬儀に関する人員の手配、葬儀に使う道具の製作・貸出など、様々な形の葬儀社が全国に登場します。
 ところがその影響もあってか葬儀が大型化していくと、反対に葬儀が他の住民の生活を妨げてしまうようになり、大正時代には多くの人が故人を見送るために並ぶ「葬列」が禁止されます。その結果として登場したのが、今では当たり前となっている「霊柩車」です。
 このように明治以降、宗教が政治闘争に使われることはなくなり、葬儀の規模・形式・業者も大きく発展していきます。
 しかし――日本が日中戦争、さらに太平洋戦争に突入すると、葬儀の様相は変わってしまいました。
 それまで葬具に使われていた材料、霊柩車の燃料などはほとんど戦争に使われるようになり、戦死者の遺体回収作業に葬儀社の人間が駆り出され、会社の経営もままならず営業を停止するところもあったほどです。
 加えて戦争末期には、もはや葬儀・告別式を行うどころではありませんでした。大量の死者と、納棺、火葬――日本における葬儀史は、戦争によって一度途絶えてしまったといってもよいでしょう。
 日本の敗戦で戦争が終結しても、事態は変わりませんでした。それどころか戦前よりも物資が不足し、インフレも起こったため、国民も葬儀にお金を割くことはできません。
 そんな葬儀を取り巻く状況が変わったのは、1950年の朝鮮戦争による特需です。好景気によって日本経済は戦後から立ち直り、葬儀の形もまた新たな時代を迎えるのです。

多種多様化する葬儀とその今後

 朝鮮戦争の特需後、葬具会社をはじめ多くの葬儀関連業者が誕生します。
対して昭和20年代後半から30年代は「虚礼禁止」という葬儀内容の制限が設けられ、これは新しく誕生した葬儀関連業者にとっては痛手でした。
 そこで1956年、葬儀関連業者による団体「全日本葬祭業組合連合会」(1975年に全日本葬祭業協同組合連合会へと発展)が設立されました。
 対して1948年、戦争直後には「冠婚葬祭互助会」が発足しており、葬儀業界は戦前と比べても「企業化」の道をたどります。
 1965年ごろからは民間の斎場も生まれ始め、1985年以降は葬儀・告別式が斎場で行われることも一般的となっています。
 バブル崩壊以降は告別式が独立したような形式の「お別れ会」という、それほど費用をかけない葬儀など、葬儀の形も多種多様化しました。
 国内の葬儀は今も仏式が多いものの、以前よりも檀家制度は弱まり、無宗教式の葬儀も増加中です。

 古来より続く葬儀の歴史。かつては宗教が国の政治の争いごとに使われ、それに合わせて葬儀も時代時代によって大きく変化してきましたが、それでも今も我々の生活に密着していることは変わりません。
 葬儀の内容が多種多様化するなかで、日本には数多くの葬儀社が存在しています。今後は消費者がどの葬儀社を選ぶのか――そんな視点が求められる時代になっていくでしょう。

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